偉人伝

2012年10月28日 (日)

雪舟の伝記

水墨画といえば、「雪舟」ですね。
こちらの挿絵は以前描いたもの。
「10分で読める伝記2年生」(学研)におさめられています。
Sessyu1
雪舟は、10歳でお寺にあずけられたものの、ちっとも修行せず、
絵ばかり描いていました。和尚さんに何度叱られても、やめないので、
とうとう、柱にくくりつけられてしまいました。心細さで泣いた涙が
床にしたたりました。
その涙を足なぞって描いたねずみがまるで生きているかのようだった~
という伝説が有名です。
Sessyu2
和尚さんの許しをえて、雪舟は、絵の修業に打ち込みます。
やがて、中国にわたり、そこで認められ帰国。
日本を代表する水墨画家として86歳まで、絵を描き続けたと
いうことです。
Sessyu3_2
雪舟の絵は、強い。「美しい」というより「個性的な水墨画だ」と、
思います。「誰にも描けないものを描こう!」という強烈な自我や
上昇志向を感じます。
対象を写すのではなくて、単純化して強調する空間づくりは、
まさに「開拓者」だったと思います。
そして、この画家の線とセザンヌの面が似ている。と思うのは、
わたしだけかなぁ。
Sessyu000




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2010年10月 2日 (土)

江戸の芋神さま「青木昆陽」その2

さつまいもの栽培に意欲いっぱいの昆陽でしたが、
それを心よく思わない人も大勢おりました。
将軍さまにほめられた昆陽が気に入らないのです。
「あんな若ぞうに何ができる」と陰口をたたきます。
「あのいもには毒があるそうだ」とうわさまで流れます。

そして、大変なことにたくさんの種いもがくさってしまいました。
もともと南の国のいもなので、江戸の冬の寒さなあわなかったのです。
「それ、見ろ。畑仕事を知らぬ魚屋あがりの学者のすることだ。
うまくいくものか」
しかし、昆陽は心に誓います。
「きっと、成功してみせる。このいもは、飢饉からみんなを救って
くれるはずなのだから」

すると、昆陽を応援してくれる人たちもあらわれました。
春になると、昆陽たちは、わずかに残った種いもで苗をつくりました。
それを江戸と近くの村に植えました。
4
秋になりました。
ああ、成功です。たった17個の種いもから、たくさんのいもがとれました。
はじめて食べた人たちはそのおいしさにびっくりしました。
「なんて甘いのだろう」
「おらの村でもつくりたい」

こうしていもをつくる村は少しずつふえてゆきました。
そして、いもを植えた村では、米がとれないときでも
困りませんでした。もちろん、死んだ人もいなかったのです。
5

やがて、そのいもは薩摩の国からきたので「さつまいも」と
呼ばれるようになり、昆陽は亡くなったのちは、
「芋神さま」として神社がたてられました。
その神社では、こどもたちがすもうをとるお祭りがあったそうです。
すくすく育っている子どもたちを見て、神様になった昆陽もさぞ、
嬉しかったでしょうね。(おしまい)

2

みんなのためになると思ったことでも、はじめから、
みんなが賛成してくれるわけではない。
誰もやったことがないことなら、なおさら 反対する人も多いものです。
でも、自分が正しいと思ったことをさいごまで、あきらめずに成し遂げた
昆陽ってりっぱだなぁ。

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2010年9月26日 (日)

江戸の芋神さま「青木昆陽」その1

秋の枕詞?にいろいろあれど、なかでも「食欲の秋」はだれもが大好きな秋!
そして「さつまいも」といえば、子どもたちの大好物♪
「おいも堀り遠足」で自分でとって、ふかしてもらったさつまいもの思い出は
大人になっても今だ甘~い思い出だったりします。
しかも、ビタミンも豊富で、戦争中はお米のかわりとなった大事な食料でした。
このように日本人にとって、とても身近な「さつまいも」ですが、
原産はペルー、アルゼンチンで外来種なのですね。

さて、今回はさつまいもの普及につとめ「江戸の芋神さま」と呼ばれた
「青木昆陽(あおきこんよう)」のお話です。
時代は江戸の中期。「暴れん坊将軍」や「大岡越前」が活躍したころです。

小学生の低学年でも理解できるよう、平易に書いてみました。
題して「さつまいもものがたり」。
お楽しみください。

1
むかし、今から280年ぐらい前のおはなしです。
西国で大きな飢饉がおこりました。(1732年享保の大飢饉
稲を食い荒らす「いなご」という虫が大発生したのです。
いなごは、大群となって次から次へと田んぼにおそいかかります。
そのためその年は、ほとんどお米がとれませんでした。
食べ物が足りなくて、おなかをすかせた人々がそこらじゅうにあふれ、
死んでしまう人もたくさんいました。
そのようすを聞いて、江戸にいた青木昆陽という人は考えました。
「米のかわりに食べられるものはないだろうか?」

2
昆陽は魚屋の息子でしたが、勉強が大好きで、魚屋にはならず、
学者になっていました。いろいろと書物を調べていくうちに、
琉球(沖縄)や薩摩(鹿児島)では、外国から伝えられた
めずらしい芋をうえていることを知りました。
そのいもは米がとれないやせた土地でもとれ、雨が少なくても
とれるということです。
「これだ!これだ!これなら、米のかわりになるぞ!」
3

昆陽は、夢中になっていもの植え方、育て方、食べ方など、
くわしく調べて本を書きました。(蕃薯考
それをごらんになった将軍さま(徳川吉宗)は、大変感心されて
言いました。
「うむ。このいもであれば、みんなを飢饉から救えるであろう。
ぜひにも、広めるのじゃ。」

将軍さまの命令で、薩摩の国から、たくさんの種いもが
運ばれてきました。
赤紫の芋は、どれもまるまる太っています。
「これを地中に鈴なりにしてみせよう」
昆陽の胸は高鳴りました。
つづく)

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